【衝撃】中山美穂が鍵アカのSNSに残していた遺言内容…40周年ライブへの明かしていた想いに涙腺崩壊!『毎度おさわがせします』で有名な女優の最後の恋人の悲痛の叫びがヤバすぎた!【芸能】

12月6日、自宅浴室での不慮の事故により急逝した、歌手で俳優の中山美穂さん(54)。12月9日になり、所属事務所はクリスマスコンサート「Miho Nakayama Christmas Concert 2024 in Billboard Live」はすべて中止、払い戻しに応じることを発表した。同コンサートは、今月1日の横浜を皮切りに、6日(大阪)、10日(横浜)、15日(東京)が予定されていたが、1日が最後の公演となってしまった。 思わぬ形で帰らぬ人となった中山さんの最後のライブでの姿を、デビュー以来見守り続けてきた男性ファンが振り返る──。 現在49歳の石原さんが、中山さんのファンになったのは小学5年生のとき。TBS系ドラマ『毎度おさわがせします』(1985年)で俳優デビューをした中山さんに、姉と2人で虜となった。同年に中山さんが歌手デビューも果たすと、夢中になって公演に通うように。全国各地の公演に駆けつけた。 「美穂ちゃんは裏表がなく、媚びずに自分の生き方を貫くスタイル。一見近寄りがたいオーラがあるのに気さくで、人を惹きつける力があって。その魅力には女性ファンも多いです」(石原さん) 石原さんが12月1日に足を運んだ前述コンサートの横浜公演・夜の部で、中山さんは「クリスマスシーズンだけど、夏の歌、歌っちゃいます!」といたずらっぽく言うと、『クローズ・アップ』(1986年)、『50/50』(1987年)などを披露したという。 「歌いたい歌を歌うのが、美穂ちゃんらしいところです。ただ、そのなかでも『クローズ・アップ』は僕がずっとリクエストしていた曲で、たしか1988年の夏のツアー以来だと思うので、感慨深かったですね。 アンコールは『ハートのスイッチを押して』(1986年)、『You’re My Only Shinin’ Star』(1988年)、そして『世界中の誰よりきっと』(1992年)の順でした。会場は拍手が鳴り止まないぐらい盛り上がっていて、美穂ちゃんも“元気でまたお会いしましょうね”と言っていたのに……」(石原さん) ■中山さんがXの鍵アカ内で見せていた“後悔” 80年代のアイドル黄金期にトップを走り続けた中山さんは、他の女性アイドルたちが徐々にタレントや女優業にシフトするなか、90年代も歌手活動を継続したが、1999年を最後に歌は休業した。その後、2002年6月には作家でミュージシャンの辻仁成(65)と結婚し、パリに移住したものの、2014年7月に離婚。中山さんが歌手活動を再開したのは、2019年のデビュー35年目のことだった。 「離婚後に歌手活動を再開したのは、同期の存在もあったと言われています。“85年デビュー組”である浅香唯さん(55)や南野陽子さん(57)、斉藤由貴さん(58)たちはデビュー30周年ライブを開催しているのに、中山さんはその頃離婚したばかりで、まだ歌手活動は休業中でした。 10年ほど前に、中山さんは音楽家・渋谷慶一郎氏との熱愛報道が出たあたりのタイミングでXアカウント(当時はツイッター)を“鍵アカウント”にしています。フォローしているファンしか閲覧できないアカウントでは、《なんで自分は(周年ライブを)やらなかったんだろう》と悔いがあるような投稿もあったそうです。同期の“85年組”への意識ももちろんあったでしょう」(音楽誌編集者) そんな中山さんは無念を晴らすように2025年にデビュー40周年を迎えるにあたり、コンサートツアーを企画。今年の10月には『Miho Nakayama Concert Tour 2025 -Un-』と銘打たれた、来年の4月から始まる全国23公演の日程が発表されたばかりだった。結局、その悲願は果たされることはなかった……。 前出の石原さんが、復帰後の中山さんの“変化”を語る。 「芯は変わらないんだけど、復帰後は丸く、やわらかい雰囲気になっていたように思います。リクエストにも応えてくれるようになったし、とにかく言動の端々から、ファンに感謝を伝えたいという気持ちが伝わってきていました」(石原さん) 今もまだ、中山さんの逝去を「信じられない」という石原さん。12月15日に行なわれるはずだった東京でのクリスマスコンサートチケットも購入し、楽しみにしていた。 チケット代は1万7000円。決して安くはないが、石原さんは、「払い戻ししないでおこうかなとも思っているところです。……彼女とのつながりが消えないように」と小さくつぶやく。 失ったもののあまりの大きさに、まだまだ中山さんの不在を受け止められないファンは少なくないだろう。  

中山美穂さんと同期の工藤静香、訃報当日の“悲痛なお願い”と2人にしかわからない“39年の仲”

ともに1985年(昭和60年)に芸能界デビューを果たした“同期”だった──。 《Instagramは、はしゃいでる写真やビデオがいっぱいなので、今回の突然の訃報はそんなところに追悼のコメントを並べられなかった》 ファンに向け、同期の訃報についてそのようなメッセージを送ったのは工藤静香。 「静香さんはスポーツ紙1紙のみに追悼コメントを寄せていますが、ファンクラブサイトでは、それとは別にファン向けのメッセージを出しています」(芸能プロ関係者) 「親友といっていい関係性だった」 12月6日、俳優・歌手の中山美穂さんが亡くなった。54歳だった。突然の訃報に世間やネット、SNSでは悲しみの声であふれている。それは中山さんが40年の月日を過ごした芸能界も同様で、多くの共演者やスタッフらが哀悼のコメントを発表している。 そのなかの1人、静香は中山さんと同じ1985年にアイドルグループ『セブンティーンクラブ』のメンバーとしてデビュー。同年に中山さんはTBS系ドラマ『毎度おさわがせします』でデビューしている。中山さんの初出演(ドラマ放送日)は1月8日、静香のレコード発売日は1月21日と、ほとんど同タイミングで芸能界に入った。ともに14歳だった。 「静香さんは最初のグループが振るわず解散した後、『おニャン子クラブ』に。 “ヤンキーキャラ”が受け、注目されるようになりました。 中山さんはアイドル歌手としてもヒットを飛ばし、デビュー年に出演した映画『ビー・バップ・ハイスクール』などで注目の新人女優に。1987年には出演したTBS系ドラマ『ママはアイドル!』で演じた役柄・中山美穂の愛称“ミポリン”がそのまま本人の愛称として定着しました」(芸能ジャーナリスト) その後、静香はおニャン子クラブの派生ユニット『うしろ髪ひかれ隊』で活躍し本格的にブレイク。中山さんと静香、そして南野陽子と浅香唯を加えた4人は“アイドル四天王”と称された。 「中山さんと静香さんの2人は1987年にフジテレビ系のドラマ『おヒマなら来てよネ!』で共演。それをきっかけに公私ともに親交を深めていきました。それはプライベートでも2人で遊びに行くような親友といっていい関係性だった」(前出・芸能ジャーナリスト、以下同) 1980年代後半から1990年代初頭にかけて、中山さんは当時全盛期だった男性アイドル・田原俊彦との熱愛が幾度となく報じられた。半同棲、ハワイ旅行などなど。そんななか……。 ファンへの悲痛なお願い 「1991年1月1日にフジテレビで放送された『新春かくし芸大会』で静香さんと田原さんが共演。これをきっかけに静香さんと田原さんの仲が噂されるようになりました。静香さんが中山さんから奪った、中山さんが静香さんに激怒した、田原さんきっかけで2人は絶縁状態になったというものです。憶測の域を出ていないものも多かったですが……。 現に1990年代に出演した歌番組で中山さんと静香さんは仲良く談笑していたり、近年中山さんは出演した番組で“当時、仲が良かったアイドル”を聞かれ、静香さんの名前を真っ先に出していました」 1980年代~1990年代、バブル景気もあり芸能界が最も華やかだったといえる時代。中山さんと静香は多少のすれ違いはあったかもしれないが、ともに最前線を走り抜いた。 「静香さんにとって中山さんは同い年で同じ年にデビューした親友であり、戦友であり、そしておそらくはライバルであった。それはアイドル・歌手としてだけでなく、もしかしたら恋路も含んでいたかもしれません。2人はまだ54歳。静香さんの心境は第三者にはうかがい知れないものがあるでしょう」 静香が冒頭の追悼文を出したのは12月9日のこと。しかし、訃報当日にも中山さんへの気持ちを表していた。いや、正確には表すことすらできなかったというべきか。 《ごめん、 ショックが強い。。。 悲報についての インスタのコメントは控えてほしい》 (工藤静香のファンクラブサイトより) 「料理や家族写真など、ファンにとってインスタは現在の静香さんを知るいちばんのメディアで、拡散力も強い。このメッセージの公開前は2人の仲を知るファンの一部から心配するコメントが投稿されていましたが、メッセージ以降はそういった類のものはなくなりましたね」(前出・芸能プロ関係者) 来る2025年は、記念すべき2人のデビュー40周年だった。2人が並ぶ姿を見ることはもう、叶わない──。  

「超危ねぇ!」あと半歩で…歩行者優先の横断歩道であわや衝突の瞬間 三重・鈴鹿市 京都では突然のUターンも

三重・鈴鹿市で目撃されたのは、横断歩道を渡ろうとする男性。 ドライバーが停車し男性が歩き始めた次の瞬間、車が猛スピードで横断歩道を通過。 男性はギリギリのところで止まり、衝突を回避しました。 その足先は…つま先立ち。 あと半歩進んでいれば車にひかれるという危険な状態でした。 ドライバー: 反射的にクラクションを鳴らして警告はできたが、びっくりして声も出なかった。 横断歩道を渡る歩行者が優先。 男性は会釈をして去っていったということです。 あわや衝突の瞬間は、京都市でも。 ドライバーが追い越し車線を走っていた、その時…。 左の車線を走っていた車が突然曲がって目の前に。 ドライバーは何とかハンドルを切り、衝突を回避しました。 ドライバー: 「あっ、もうぶつかった」と思って、本当にヒヤッとした。たぶんUターンしようと思ったんだと思う。 ドライバーによると、相手の車はUターン直後に止まったものの、すぐに立ち去ったということです。 ドライバー: その人にイライラというよりは、本当に無事で良かったという気持ちが大きいです。