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ブラジル南東部 バスとトラック絡む事故 38人死亡 トラックから岩ブロック落下か(2024年12月22日)

ブラジル南東部で長距離バスとトラックなどが関係する事故が起き、38人が死亡しました。

岩とバスが衝突?38人死亡 ブラジル(ABEMA TIMES)|dメニューニュース(NTTドコモ)

ロイター通信などによりますと、21日、ブラジル南東部ミナスジェライス州の高速道路で、45人が乗った長距離バスとトラックなどが関係する事故があり、バスが炎上しました。

この事故でバスの運転手を含む38人が死亡しました。

トラックの運転手は現場から逃走しています。

ブラジルの高速道路でバスとトラックが衝突 38人死亡 バスのタイヤがパンク(FNNプライムオンライン)|dメニューニュース(NTTドコモ)

警察は、トラックが運んでいた大きな岩のブロックが道路に落ちてバスに衝突した可能性があるとしています。

このバスはサンパウロを20日に出発し、北東部のバイーア州に向かっていました。

リオデジャネイロの日本総領事館によりますと、これまでに日本人が巻き込まれたという情報はありません。

引き続き確認を続けるということです。

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広末涼子が芸能界の苦悩告白も…「娘に女優をやらせたい」

俳優やアーティストをゲストに迎え、これまで語られることのなかった生き様を深掘りするYouTube番組『Short Hope』。12月22日配信回から、全5回にわたって女優・広末涼子(44)が出演することが明らかになった。離婚・事務所独立にも触れられる内容とあって、すでに大きな注目を集めている。 広末の人生は、まさに波乱万丈といえるものだろう。1994年に第1回クレアラシル「ぴかぴかフェイスコンテスト」でグランプリを獲得し、同CMへの出演で14歳にして芸能界デビュー。NTTドコモのCMで一躍人気者となり、1997年には「MajiでKoiする5秒前」で歌手デビューを飾った。同年には映画『20世紀ノスタルジア』で各映画賞新人賞を総なめ。年末には『第48回NHK紅白歌合戦』にも出場しており、1990年代後半の芸能界は“ヒロスエブーム”が席巻したといっても過言ではない。 広末人気の異様な熱狂ぶりを現しているのが、早稲田大学教育学部・国語国文学科入学時のエピソードだろう。初登校時になんと3000人もの野次馬が押し寄せ、構内が大パニックになったのだ。とはいえ仕事と学業の両立は困難だったようで、2003年に「女優業に専念したい」という理由から自主退学に至っている。 2003年は早稲田退学に加えて、わずか2カ月後の「おめでた婚」発表も大きな話題を呼んだ。約2年半前からモデル・デザイナーの岡沢高宏(49)と交際を続けていた広末は、翌年4月に第1子を出産。幸せな家庭を築いていくと思われたが、2008年に「歩幅を合わせることが難しくなった」として離婚という結末を迎えることに……。 2010年にアーティストのキャンドル・ジュン(50)と再婚し、新たに2人の子をもうけた広末。ところが2023年、週刊文春によって料理人・鳥羽周作氏(46)とのW不倫が報じられ、ネット上では 《清純派のイメージ完全になくなった》 《恋愛に奔放すぎる。絶対結婚に向いてないよ》 といった、ヒロスエブームからは考えられないようなバッシングが巻き起こった。 「2022年にベストマザー賞を獲得した広末さんですが、不倫報道から1カ月半後の2023年7月にキャンドル・ジュンさんとの離婚発表に至りました。完全に風向きが変わってしまっただけにドン底から再起をかけるしかないのですが、2024年2月には26年間所属した事務所『フラーム』を退社。広末さんの迷走を不安視する人は多く、《人間的に個人で活動するより誰かがフォローしてくれる事務所に所属すべき》という声も寄せられています」(芸能ライター) 前出の番組では「逃げたかった…」「この業界が自分に合っているのか…」と芸能界で生きていくことに不安を抱えていたことも語っているという。 一方、広末にはこんな計画もあるようで……。 2023年8月の本誌取材によると、長女を芸能界デビューさせようとしているとか。広末の知人はこう話す。 「小学2年生(当時)となる娘さんについて『将来は女優をやらせたい』と広末さんが話していました。娘さんはスラッとしていて、美人なんですよ。本人も芸能界に興味を持っているようです。 テレビを見て女優さんの演技のまねをすることもあり、そんな彼女に広末さんがアドバイスしたりしているそうです」 国民的アイドルが“ステージママ”に転身する可能性も――。 とにもかくにも、22日に配信開始されるYouTube番組『Short Hope』に注目したい。

女優・中田辻希美 “さすが芸能人”なすっぴん姿までの紆余曲折 30代まで“日焼け止めなし”で後悔も

タレントの辻希美(37)が12月17日、自身のYouTubeチャンネルを更新。17歳の長女・希空(のあ)と並んですっぴんからのメイク動画を公開した。 動画は、これからお出かけだという、ヘアバンドをしたすっぴんの辻と、顔をスタンプで隠した希空が並んでメイクをするところから始まる。 自身のメイク動画について「需要ない? もう需要ない?」と自虐気味に問いかけつつ、ベースメイクからスタート。辻が希空のチークを借りて使い、希空から「酔っ払いみたい」とツッコまれたり、塗り方を教わるなど、友達のような会話が続きメイクは完了。 その後、2人でフルーツたっぷりの朝食を取り、2人でお互いの髪をヘアアイロンなどでセットして出かけるところで動画は終了する。 母娘が終始仲良く出かける身支度をするだけのたわいもない内容の動画だが、ネット上では辻のすっぴんが綺麗だと絶賛する声が上がった。 《すっぴん綺麗》 《辻ちゃんおきれいです》 《辻希美 希空ちゃん親子揃って 超超超超超超可愛い過ぎや》 《動画を観ましたが辻ちゃんすっぴんでも充分綺麗なのはさすが芸能人だと思いました》 《でもやはり30後半でこの綺麗さ若さは毎日美容努力されての結果だし普通に尊敬できます》 辻のすっぴんが綺麗だと話題になるのは今回が初めてではない。昨年、夏の家族旅行の動画をYouTubeで公開した際も、寝起きのすっぴんが“綺麗”と評判だった。しかし、意外なことに、辻はもともと美容に関してかなり無頓着だったという。 「辻さんは12歳からアイドルグループ『モーニング娘。』として活動してきました。中学生の頃には身長150cmで体重が65kgまで増えたことがあり、痩せるために“食べないダイエット”をしたこともあったそうです。しかし、そのため肌荒れを起こしてしまったり、体調不良に陥ったこともあったそうです。荒れた肌はファンデーションを塗って隠すなどで対処し、スキンケアとは無縁だったそうです」(同前) 20歳で第1子を出産後、合計4人の子供を次々と出産。各種インタビューで、育児に追われた20代は自身のケアに気を使う余裕はなかったと明かしている。 「さらに35歳ごろまで、日焼け止めを塗ったことがなかったとも話していました。もともと肌の色が濃いめで、子どもとプール遊びなどをする夏はいつも真っ黒に日焼けするので、あまり気にしていなかったそうです。 ところが、30代に入って、肌にシミができているのを発見してショックをうけ、“10代の頃からUVケアをしておけばよかった”と後悔したそうです。それからは日焼け止めをしっかり塗るようになったそうです」(同前) 紫外線ダメージを挽回するためか、’22年には日焼け対策を目的とした美容サプリのプロデュースを手がけるなど、内側からのケアにも力を入れていった辻。 「美容のためのサプリのほか、動画で食べていたフルーツたっぷりのグラノーラもそうですが、水をたくさん飲む、アサイーなどの美容食材、野菜と鶏肉中心の食生活など、内側からの健康にも力を入れているようです。 先日も、希空さんと銀座のクリニックで“ビタミン点滴”や“白玉点滴”を受けたことが話題になっていました。美容意識の高い希空さんの存在も刺激になっているようです」(同前) 美しいすっぴんの裏には惜しまぬ努力があったようだ。

「すごい言葉で叱られた」女優・中田喜子 TBSに行くのが嫌になるほど居残りさせられた名作ドラマの思い出

「1970年代後半、TBSの木曜枠は石井ふく子先生が手がけるホームドラマ、金曜枠は辛口の社会派ドラマが放送されていました。私は金曜枠にお声がけいただく機会が多く、『岸辺のアルバム』の出演依頼もその流れだと思っていたんですが、まさかこんな暗い役だなんて、思いもしませんでした」 こう出演経緯を振り返るのは中田喜子さんだ。まず台本を読んで、悩まされたのは“不機嫌な女子大生”だった。 「役作りのため、当時、住んでいた場所の近所にあった青山学院大学に足を運んで不機嫌な大学生を探したんですが、なかなか見つからなくて……」 だからこそ、脚本家や演出家と“格闘”しながら役を作り上げていったという。 「山田太一さんの脚本は、接続詞を含めてセリフひとつ変えることができません。しかも、普通はセリフとセリフの間にト書きがあるものですが、山田さんの脚本は、セリフの中に《お茶を2回すする》などとト書きがあるんです。食事シーンが多かったので、演じるのが大変でした」 こうした細かい制約のなか、鴨下信一さんがキャラクターを際立たせるための演出を手がけた。 「鴨下さんは“この作品で認められなかったら演出家をやめる”という覚悟で臨んでいたそうです。だから、本当に厳しくて、私と国広富之さんは必ず居残りさせられました。すごい言葉で叱られたものです。高校生役の国広さんも、お茶わんを洗うシーンで『高校生が両手で茶わんを洗うか!』って怒鳴られたりしていました。今振り返るとありがたいことなんですが、当時は登校拒否のように、TBSに行く日は足が重くなってしまっていました(笑)」 山口いづみと意地の張り合いで服を脱ぎ合うシーンでは、鴨下さんから役になりきって、自分で下着を買ってくるように指導された。 「あのシーンでは下着まで脱いだように見えますが、実際は肩や胸のラインまで見えるような下着姿で、あとは買ってきた下着をお互いただ投げ合っているだけ。ちょっと興ざめですよね 象徴的なラストシーンでは、自然の演出もあったという。 「台風で家が流されてしまうシーンは、多摩川でロケーションをしたんです。実は前日が豪雨で、水位が上がっていたから、よりリアルな映像に。ドラマの評判が上がると、さまざまなものが味方するといわれているんです。これも鴨下さんの執念があったからかもしれません」 『岸辺のアルバム』(TBS系・’77年) 一見幸せそうな家族4人だが、妻・則子(八千草薫)は北川(竹脇無我)との不倫にのめり込み、夫の謙作(杉浦直樹)は人身売買に手を染めるなど崩壊寸前。多摩川の水害により家が流される場面で、4人が持ち出したのは偽りの笑顔が詰まったアルバムだった。名作すぎる! 【PROFILE】 なかだ・よしこ 1953年生まれ、東京都出身。1972年にドラマデビュー後、数多くのドラマ、映画に出演。1990年に始まった『渡る世間は鬼ばかり』シリーズには20数年にわたって出演した。また、DIYの達人としても知られている。

千葉で強盗致傷事件 相次ぐ 被害男性「命あってよかった」(2024年12月22日)

22日未明、千葉県柏市と旭市で、男が住宅に押し入る強盗事件が相次いで発生しました。1人が背中を刺されてけがをしています。 午前2時半ごろ、柏市で「家に侵入していた者ともみ合いになった」と被害者の60代の男性から110番通報がありました。 警察によりますと、1階の風呂に入っていた男性が物音に気付いて2階に向かったところ、鉢合わせた1人の男に顔を数回殴られたうえ、首を絞められたということです。 被害者 「(Q.犯人は?)2、3人。その1人と取っ組み合いした。命があってよかった」 警察は少なくとも2人で犯行に及んだとみています。 近隣住民 「パトカーの音がしていた」 「(Q.犯人まだ捕まっていない)怖いね」 また、東に60キロほど離れた旭市でも午前5時半ごろ、若い男が住宅に侵入し、室内を荒らした後、この家に住む男性の背中を刺して逃走しました。 男性の命に別状はないということです。 警察は2つの強盗事件の関連を調べています。

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