中山美穂さん 葬儀で実母は慟哭…個人会社の資金管理巡る“溝”埋まらぬまま急逝
「松岡(昌宏)さんたっての希望で、今回の『ミタゾノ』の第1話に中山さんのゲスト出演が決まっていたんです。小学生時代からファンで“結婚していちばんショックだった人”の質問に中山さんの名前をあげたことがあるほど。待望の共演となった彼女の笑顔を松岡さんはいまも忘れられないそうです」(番組関係者) ’25年1月に中山美穂さん(享年54)が生前に撮影していた2本のドラマが放送される。その1本が、『家政夫のミタゾノ』(テレビ朝日系)だった。まさかそれが“終幕”となるとは――。 誰もが耳を疑った中山さんの急逝から約半月が経過した。葬儀・告別式がおこなわれた12日、妹・忍(51)はこのコメントを発表。 《何より姉が幸せを願ってやまない愛する息子と、再会の時間をもたせてあげることができました。手を?ぎ、そっと寄り添う2人の姿は、とてもとても幸せなものでした》 辻仁成(65)との間に誕生した長男(20)と“最後の対面”をしていたことを明らかにした。彼女の知人はこう語る。 「中山さんは常に周りには『息子がかわいくて仕方がない』と溺愛していることを明かしていました。しかし、’14年に離婚。親権は辻さんが持ちますが、彼女からは“親権を譲ることが離婚を承諾してもらう条件だった”と聞いています。離婚後、約10年間、長男とは会っていなかったようです」 長男は中山さんの葬儀・告別式には参加していなかった。それには理由があったという。 「長男は一般人ですので、取材陣の目に触れる可能性のある葬儀へ参列するのはどうなのか、遺族や関係者の間で話し合いがあったようです。パリの辻さんも心配して“長男を守ってほしい”と要請があったといいます。 また、忍さんからは“どうしても姉を自宅に帰してあげたい”という強い要望があったそうです。そこで、中山さんの住んでいた都内の自宅で、長男と最後の対面をすることになりました」(前出・知人) 妹・忍が喪主を務め、遺族と関係者ら約30人が参列した葬儀ではこんな場面が見られたという。 「親族の最前列に喪主の忍さんや弟さん、その隣にはお母さんが座っていたんです。お母さんは葬儀中、ずっと背中を丸めて泣いていました」(参列者) 中山さんは自著『なぜなら やさしいまちが あったから』で、自らの生い立ちを明かしている。戸籍に実父の名前はなく、覚えているのは彼の背中と自宅にあったフランス人形、床の間に飾られた日本刀の置物だったという。 「お母さんは忍さんを出産後、実父と別れて、姉妹は親戚や祖母の家などに預けられたそうです」(スポーツ紙記者) 同書でもこのような記述が――。 《私は母に対する幼少期の記憶はあまりない。母なりに一生懸命生きていくために私はあらゆる家に預けられていた》 中山さんが小学生時代に、実母は秋田県出身の男性と再婚。弟が誕生する。そして運命の’82年、中学1年生の中山さんは東京・原宿でスカウトされることに――。 「中山さんとお母さんと、のちの事務所社長が、3人で食事をしたときのことです。中山さんは2人を前に『お母さんはとても苦労してきました。だから私はとにかく頑張って、お母さんに家を建ててあげたい』と涙を流して訴え、芸能界入りを決めたそうです。’88年にはお母さんが代表取締役を務める個人会社を設立。収入の管理を彼女に一任していたといいます」(前出・スポーツ紙記者) ■泣き崩れた実母を妹・忍が支えて―― またたく間にトップアイドルとなった中山さん。’95年には母親のために、東京・三鷹市内に3階建ての一軒家を建設する。母娘の強固な関係はこのまま永遠に揺るがないと思われたが……。 ’01年、中山さんは辻と出会い、交際8カ月で翌’02年に電撃婚。フランスに移住することを決める。’04年に長男を出産してから、母娘の溝は徐々に広がっていったようだ。音楽関係者はこう語る。 「母親は’00年、再婚相手の地元である秋田でイタリアンレストランを開きました。しかし経営は決して順調ではなかったようです。あるとき美穂さんは、個人会社の残金が少ないことに気づき、母親に不信感を覚えるようになりました。それを機に、母親に自らの資金管理を任せることを一切やめる決意をして、距離を置くようにしたといいます」 実母が代表取締役を務める個人会社は’12年に閉鎖され、中山さん本人が代表取締役を務める新会社に合併されることとなった。また、三鷹市内の自宅も売却され、秋田のレストランも別の人物が運営することとなった。 「中山さんの新会社の役員には、ほかに忍さんの名前があるだけで母親は名を連ねていません。会社閉鎖のころから、中山さんと母親の間には確執が続いていたようなのです。母娘関係が昔のように良好であれば、母親が今回、喪主を務める選択肢もあったはずですし……」(前出・音楽関係者) 葬儀では中山さんの母親の憔悴ぶりが際立っていたという。前出の参列者はこう語る。 「お母さんは葬儀の途中で泣き崩れることもあり、そのときは忍さんが支えていましたね……」 前出の知人は言う。 「中山さんは長男が成人を迎え、“自分のことを恨んでいるかもしれないけれど、もう一度会って話をして許してもらいたい”という思いを抱いていたようです。ひょっとしたら、お母さんも、中山さんと同様に“もう一度、向き合って話せたら”という切なる思いを長らく抱いていたのかもしれませんね」 中山さんが生前、撮影していたもう1本のドラマは香取慎吾(47)主演作『日本一の最低男 ※私の家族はニセモノだった』(フジテレビ系)だった。華やかな芸能生活の傍らで、“家族のあり方”に苦慮する人生だったのかもしれない。
永尾柚乃、将来の夢は監督 脚本のアイデアは「パーンと浮かぶ」
子役の永尾柚乃(8)が25日、「キッザニア東京 大和証券出展「証券会社」パビリオン リニューアル オープニングセレモニー&プレスプレビュー」に出席し、将来の夢について語った。 将来の夢は監督と明かした永尾柚乃 (C)ORICON NewS inc. KCJ GROUPが企画・運営を行う子どもの職業・社会体験施設「キッザニア東京」(江東区)では、大和証券グループ本社出展のパビリオンがリニューアル。「キッザニア東京」開業以来初となる、専用通貨「キッゾ」を使った投資体験ができる「証券会社」パビリオンが新たに誕生した。 「キッザニア東京 大和証券出展『証券会社』パビリオン リニューアル オープニングセレモニー&プレスプレビュー」「証券会社」パビリオンの模様(C)ORICON NewS inc. この日、蝶ネクタイにチェック柄のスーツ姿で登場した永尾。首にかけた財布から取り出した「キッゾ」やパネルを用いて、パビリオンの内容や楽しみ方について、プレゼンテーションを行った。 MCから将来になりたい職業を聞かれた永尾は「監督さんになりたい」と話した。そのために、3歳の頃から脚本を書き貯めていると言い、感動系の脚本やおもしろい系の脚本をいっぱい書いてます」と笑顔で語った。 また「テレビを見てたら、パーンと浮かびます」と、アイデアが振ってくる直感的なタイプだと明かし、「パーンってきたら、すぐにノートに書き始めます」と努力家の一面を見せた。 「キッザニア東京 大和証券出展『証券会社』パビリオン リニューアル オープニングセレモニー&プレスプレビュー」に登場した永尾柚乃(C)ORICON NewS inc. 大和証券グループ本社取締役兼執行役副社長の田代桂子氏、KCJ GROUP代表取締役社長の圓谷道成氏も出席した。 なお、「証券会社」パビリオンのリニューアルオープンはきょう25日の第2部(午後4~9時)から。
「逃げたかった」広末涼子 2年間の休業にいたる“葛藤”を激白「強迫観念の中にいました」
女優の広末涼子(44)が12月23日に更新されたYouTubeチャンネル「Short Hope」の動画に出演。休業期間中の胸の内を赤裸々に告白した。 同チャンネルは多くの俳優やアーティストを手掛ける大御所スタイリスト・馬場圭介氏の番組。月替わりでさまざまな有名人を迎え、その生き様をテーマに馬場氏がゲストをスタイリングしていくという内容だ。これまでにのん、藤井フミヤ、窪塚洋介らが登場し、自らの人生の軌跡を語ってきた。 今回、広末は「ジェンダーレス」というテーマを馬場氏にリクエスト。幼少期、よく男の子に間違われていたというエピソードを披露しつつ、「女優になることは小さいころからの夢で物心ついたときから決めていた」と回想した。 番組中盤では90年代の“ヒロスエブーム”の話題に。広末は人気絶頂の中、03年に結婚と妊娠を発表して産休に入った。その後、2年間休業した理由を問われると、世間から求められる“広末涼子”像と本当の自分とのギャップに苦しんでいたためだといい、こう語った。 「みなさんが思っているイメージに反したくはないし、期待に添いたい。イメージを持ってくださるってことは注目してくださっているってことでありがたいし、裏切りたくない。だけど、100%イメージ通りには生きてはいけない。自分の選択肢とか人生っていうのが、女優としてがすべてじゃないなって思ったときに、一回手放してみたいというか、もしかしたら逃げたかったかな……」 当時23歳だった広末は「責任とか重圧とか、若かったから余計にこの業界でやっていくことが自分に合っているのかどうなのか混乱」していたのだという。続けて、「自分に戻れる時間って絶対必要で。でも、人気があったり需要があったりすると休ませてもらえないから、ただただ辛くて、眠くて、疲れてるみたいな。楽しいことする時間ないし」と当時の苦しい心境を明かした。 ‘19年のインタビューでは、広末はこの時期を《好きであることを忘れて、やらなければという責任感とか負荷ばかりがかかって、よろいみたいに重たくなってしまい、本末転倒だった。なんのためにやっているのだろうと、強迫観念の中にいました》(「withnews」19年1月20日配信 以下同)と振り返っている。だが、そんな“葛藤”も2年の休業期間のおかげで乗り越えることができたのだという。 「広末さんは休業中、家族や育児に向き合いつつも一視聴者としてたくさんのドラマや映画を観ていたと聞きました。そこで、ちょっとアホらしいようなコメディ作品でも人に癒しや感動を与えられることを知り、自分が女優として凝り固まった考えをしていたことに気づき、気持ちがラクになったそうです。 また、セルフプロデュースが苦手であることを改めて自覚したことで、世間のイメージする“広末涼子”像を意識せず、肩の力を抜いて自然体で仕事に挑めばいいんだと思えるようになったのだとか。それが女優として演技や役柄の幅を広げることにつながったそうです」(制作関係者) どん底からの休業期間を経て女優として大成したにもかかわらず、‘23年の不倫騒動でまたもや休業してしまった広末。今年4月、約1年ぶりに芸能活動を再開させたものの女優復帰はまだの彼女が、もしかすると今回の“休息”でさらなるパワーアップを遂げているかもしれない。